崔郾简介
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崔郾所在朝代:唐代
崔郾(768—836),字广略。举进士,平判入等,授集贤殿校书郎。三命升朝,为监察御史、刑部员外郎。资质秀伟,神情重雅,人望而爱之,终不可舍,不知者以为事高简,拘静默耳。居内忧,释服为吏部员外。奸吏不敢欺,孤寒无援者未尝留滞,铨叙之美,为时所称。再迁左司郎中。
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生平
作者:佚名
元和十三年,郑余庆为礼仪详定使,选时有礼学者共事,以郾为详定判官、吏部郎中。十五年,迁谏议大夫。
穆宗即位,荒于禽酒,坐朝常晚。郾与同列郑覃等延英切谏。穆宗甚嘉之,畋游稍简。长庆中,转给事中。
昭愍即位,选侍讲学士,转中书舍人。入思政殿谢恩,奏曰:“陛下用臣为侍讲,半岁有余,未尝问臣经义。今蒙转改,实惭尸素,有愧厚恩。”帝曰:“朕机务稍闲,即当请益。”高钺曰:“陛下意虽乐善,既未延接儒生,天下之人,宁知重道?”帝深引咎,赐之锦彩。郾退,与同列高重抄撮《六经》嘉言要道,区分事类,凡十卷,名曰《诸经纂要》,冀人主易于省览。上嘉之,赐锦彩二百匹、银器等。
其年转礼部侍郎,东都试举人。凡两岁掌贡士,平心阅试,赏拔艺能,所擢者无非名士,至大中、咸通之代,为辅相名卿者十数人。出为陕州观察使。旧弊有上供不足,夺吏俸以益之,岁八十万,郾以廉使常用之直代之。居二年,政绩闻于朝。迁鄂岳安黄等州观察使。又五年,移浙西道都团练观察使,至,用宽政安疲人。及居鄂渚,则峻法严刑,未常贳一死罪。江湖之间,萑蒲是丛,因造蒙冲小舰,上下千里,期月而尽获群盗。凡三按廉车,率由清简少事,财用有余,遂宁泰。开成元年卒,年六十九,赠吏部尚书,谥曰德。
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