范致虚简介
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范致虚所在朝代:宋代
范致虚(?~1137年)字谦叔,福建建阳人。宋哲宗元祐三年,中进士,为太学博士,以祖送邹浩获罪停官。宋徽宗立,召为左正言,出郢州通判。崇宁初,召为中书舍人,改兵部侍郎。政和七年,入为侍读、修国史,寻除刑部尚书、提举南京鸿庆宫。宣和七年,以陕西五路经略使率兵勤王。宋高宗即位,徙知邓州,寻加观文殿学士,复知京兆府,因兵败失城,责授安远军节度副使、英州安置。绍兴七年,召复资政殿学士、知鼎州,行至巴陵而卒,赠银青光禄大夫。
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生平
作者:佚名
范致虚,字谦叔,建州建阳人。举进士,为太学博士。邹浩以言事斥,致虚坐祖送获罪,停官。徽宗嗣位,召见,除左正言,出通判郢州。崇宁初,以右司谏召,道改起居舍人,进中书舍人。蔡京建请置讲议司,引致虚为详定官,议不合,改兵部侍郎。自是入处华要,出典大郡者十五年。以附张商英,贬通州。政和七年,复官,入为侍读、修国史,寻除刑部尚书、提举南京鸿庆宫。
初,致虚在讲议司,延康殿学士刘昺尝乘蔡京怒挤之。后王寀坐妖言系狱,事连昺论死,致虚争之,昺得减窜,士论贤之。迁尚书右丞,进左丞。
母丧逾年,起知东平府,改大名府。入见,时朝廷欲用师契丹,致虚言边隙一开,必有意外之患。宰相谓其怀异。致虚乞终丧,从之。免丧,知邓州,改河南府。中人规景华苑,欲夺故相富弼园宅。致虚言:「弼和戎有大功,使朝廷享百年之安,乃不保数亩之居邪?」弼园宅得不取。复移邓州、提举亳州明道宫。帝方好老氏,致虚希时好,营饬道宇,赐名炼真宫。
靖康元年,召赴阙,道除知京兆府。时金人围太原,声震关中,致虚修战守备甚力。朝廷命钱盖节制陕西,除致虚陕西宣抚使。金人分道再犯京师,诏致虚会兵入援。钱盖兵十万至颍昌,闻京师破而遁,西道总管王襄南走。致虚独与西道副总管孙昭远合兵,环庆帅臣王似、熙河帅臣王倚以兵来会。致虚合步骑号二十万,以右武大夫马昌祐统之,命杜常将民兵万人趋京师,夏俶将万人守陵寝。
兵有僧赵宗印者,喜谈兵,席益荐之。致虚以便宜假官,俾充宣抚司参议官兼节制军马。致虚以大军遵陆,宗印以舟师趋西京。金人破京师,遣人持登城不下之诏,以止入援之师,致虚斩之。初,金人守潼关,致虚夺之,作长城,起潼关迄龙门,所筑仅及肩。宗印又以僧为一军,号「尊胜队」,童子行为一军,号「净胜队」。致虚勇而无谋,委己以听宗印。宗印徒大言,实未尝知兵。至是,宗印舟师至三门津,致虚使整兵出潼关。金守臣高世由谓其帅粘罕曰:「致虚儒者,不知兵,遣斥候三千,自足杀之」。致虚军出武关,至邓州千秋镇,金将娄宿以精骑冲之,不战而溃,死者过半。杜常、夏俶先遁,致虚斩之。孙昭远、王似、王倚等留陕府,致虚收余兵入潼关。方致虚之鼓行出关也,裨将李彦仙曰:「行者利速,多为支军,则舍不至淹,败不至覆。若众群聚而出肴、渑,一蹴于险,则皆溃矣。」致虚不听,遂底于败。
高宗即位,言者论其逗挠不进,徙知邓州。寻加观文殿学士,复知京兆府;致虚力辞,而荐席益、李弥大、唐重自代。诏以重守京兆,致虚复知邓州。次年,宗印领兵出武关,与致虚合。会金将银朱兵压境,致虚遁,宗印兵不战走,转运使刘汲力战死焉。致虚坐落职,责授安远军节度副使,英州安置。高宗幸建康,召复资政殿学士、知鼎州。行至巴陵卒,赠银青光禄大夫。
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