和岘简介
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和岘所在朝代:宋代
岘字晦仁,开封浚仪(开封)人,后唐长兴四年(933年)生。父凝,晋宰相,花间集词人。岘十年等朝为著作郎。建隆初,太常博士。太平兴国二年(977),为京东转运使,坐事削籍。端拱元年(988),主客郎中,判太常寺兼礼仪院事。是年卒,年五十六。
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生平
作者:佚名
和岘,字晦仁,开封浚仪人。父凝,晋宰相、太子太傅、鲁国公。岘生之年,适会凝入翰林、加金紫、知贡举,凝喜曰:“我平生美事,三者并集,此子宜于我也。”因名之曰三美。七岁,以门荫为左千牛备身,迁著作佐郎。汉乾佑初,加朝散阶。十六,登朝为著作郎。丁父忧,服阕,拜太常丞。
建隆初,授太常博士,从祀南郊,赞导乘舆,进退闲雅。太祖谓近侍曰:“此谁氏之子,熟于赞相?”左右即以岘门阀对。俄拜刑部员外郎兼博士,仍判太常寺。
乾德元年十一月甲子,有事于南郊。丁丑冬至,有司复请祀昊天上帝,诏岘议其礼,岘以祭义戒于烦数,请罢之。二年,议孝明、孝惠二后神主祔于别庙,岘以旧礼有二后同庙之文,无各殿异室之说,今二后同祔别庙,亦宜共殿别室。孝明皇后尝母仪天下,宜居上室。孝惠皇后止以追尊,当居次室。从之。三年春,初克夔州,以内衣库使李光睿权知州,岘通判州事。代还,是岁十二月十四日戊戌腊,有司以七日辛卯蜡百神,岘献议正之。四年,南郊,岘建议望燎位置爟火。
又尝言:“依旧典,宗庙殿庭设宫县三十六架,加鼓吹熊罴十二案,朝会登歌用五瑞,郊庙奠献用四瑞,回仗至楼前奏《采茨》之曲,御楼奏《隆安》之曲,各用乐章。”复举唐故事,宗庙祭科处别设珍膳,用申孝享之意。又谓“《八佾》之舞以象文德武功,请用《玄德升闻》、《天下大定》二舞”。并从其议。事具《礼》、《乐志》。
先是,王朴、窦俨洞晓音乐,前代不协律吕者多所考正。朴、俨既没,未有继其职者。会太祖以雅乐声高,诏岘讲求其理,以均节之,自是八音和畅,上甚嘉之。语具《律志》。乐器中有叉手笛者,上意欲增入雅乐,岘即令乐工调品,以谐律吕,其执持之状如拱揖然,请目曰“拱辰管”,诏备于乐府。
开宝初,迁司勋员外郎、权知泗州,判吏部南曹,历夔、晋二州通判。九年,江南平,受诏采访。太宗即位,迁主客郎中。太平兴国二年,知兖州,改京东转运使。
岘性苛刻鄙吝,好殖财,复轻侮人,尝以官船载私货贩易规利。初为判官郑同度论奏,既而彰信军节度刘遇亦上言,按得实,坐削籍,配隶汝州。
六年,起为太常丞,分司西京,复阶勋章服。端拱初,上躬耕籍田,岘奉留司贺表至阙下,因以其所著《奉常集》五卷、《秘阁集》二十卷、《注释武成王庙赞》五卷奏御,上甚嘉之,复授主客郎中,判太常寺兼礼仪院事。
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