卷二十一·李邦华
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李邦华
李邦华,字懋明,江西吉安吉水人。万历三十二年甲辰进士,授知泾县。壬子擢御史,巡按浙江,有风节。时甘陵南北部之隙已启,群小争攻东林、西北诸正人,公为邹忠介门人,又同里,人多忌之。公又别白邪正,不少假借,遂倡流言。目公与周起元辈五人为五鬼。既而德清秉政,逐东林、西北无虚日,或劝公少委蛇其间。公曰:宁为偏枯之学问,莫作反覆之小人。时论益忌公。丁巳出为山东参政,病免。天启元年,即家起为光禄少卿,屡以病请。二年升佥都御史,巡抚天津。三年升兵部右侍郎。四年复称病归。时方魏忠贤用事,崔呈秀等,欲举诸名贤,一网打尽之。作天鉴、同志、点将等录。天鉴录,公名居前。督辅孙承宗拥重兵在关外,请入朝面奏一切边事。或言承宗且兴晋阳之甲,公为内主。忠贤怖,逐矫旨勒承宗还镇。御史倪文焕遂疏公东林死党,革职谪戍岭南。及崇祯元年,起公为工部左侍郎,即督河道,升兵部右侍郎,复以病去。己巳起南京兵部尚书。丁忧。癸未起南京都察院都御史,再疏坚辞。闻京城困,辞家日,为文告先临淮王,矢以身殉。时献贼陷武昌,骎及江右,公上保江南策。谓长江衣带,非仅保守九江、守安庆,可恃无恐。今宜增兵以扼险,江抚驻九江,赣抚驻吉安,以壮虎豹当关之势。往东策应,责在监司。上嘉纳之。会掌院刘宗周以救科臣熊开元,忤旨罢职,朝论谓总宪百司之长,非竭方元老,不堪任。特简公为左都御史以代之。公既莅任,申明宪约,榜绝馈遗,疏荐成勇、叶廷秀,清风亮节,可当大用。甲申贼势甚急。上日一召对,公密奏请皇上固守祉稷,效死勿去,效仁庙故事,命皇太子抚军旧京。又密奏二王分封江南,以壮东南之势。上为之心动。俄而中允李明睿议南迁,科臣光时亨劾之。朝议哗然。遂并寝监国分封之议。而大事亦去矣。至三月十五日,贼已逼近京师,公趋阁中,奏请发帑,召集朝绅乡衮居民,不问大小老弱,悉令守城,亲冒矢石以固吾圉,乃首相魏藻德尚作退食夔龙态,候久不出。出而仅曰:事未必至此,老先生且姑待。公尔时声色俱厉,痛哭流涕以道,卒不悟也。十八日,贼攻城甚急,无兵无饷,羸卒守埤,中官为政,奸细满城。公言既不得行,复躬率诸御史上城巡视。诸珰矢石拒之,不许久。公道遇太常卿吴麟征,握手挥涕,誓死国难。十九日闻上变,公南向痛哭,携册印冠带,入吉安会同馆对文丞相再拜,矢志题绝命诗。有云:人生自古谁无死,留取丹心照汗青。今日骑箕天上去,儿孙百代仰芳名。又自赞云:堂堂丈夫,圣贤为徒,忠孝大节,矢死靡他。遭国不造,空负名谟;临危授命,庶无媿吾。君恩莫报,鉴此痴愚。题毕。遂自缢死。尸五日后乃得殓云。公性介特,寡言笑,不尚华侈,举止严重,居官四十余年,重名节,励廉隅,萧然寒素,虽位望崇隆,为海内山斗,退然不胜,至值事变,临利害,屹然如山;不可摇夺。南都赠公吏部尚书谥忠文,祀旌忠祠。
论曰:忠文公固理学经济,忠节兼全之名臣也。虞山钱氏云,忠文三管戎政,大有建白,惜不得伸其志。迨贼逼京师,欲奉太子南渡,朝议纷纠,卒至莫救。忠言不用,而以死继之。所谓竭其股肱之力,而继之以忠贞者也。公请皇储抚军,俟之,夜作诗,有句云:五龙候日影,一马听江声。及请二王分封,亦有诗云:剪桐天子贵,画策老臣才。慷慨悲凉,声泪迸咽。彼时亨固罪不容于死,若逋州相又可胜寸磔哉。
一云:公闻难曰:主辱臣死,臣之分也。夫复何辞!但能得为东宫导一去路死,庶几可以无憾已矣。势不可为矣。乃题堂堂云云。因走入文丞相祠,再拜吟人生诗句云云。大哭三声而缢。死三日后,颜色不变,贼至,见其冠带危坐,争前执之,乃知其死,惊避去。诸书载文祠缢,启祯录载自文祠返寓缢,或云文祠饮药卒。
施邦曜
施邦曜,字尔韬,号四明,浙江绍兴余杭人。万历己未进士,除武学教授,升国子监博士、工部营膳司主事。天启甲子,典云南试,迁员外郎。丁丑出为漳州知府,以廉干称。擢本省布政司参政,四川按察司使。崇祯戊寅,进光禄寺卿,通政使,免官。癸未,起都察院左副都御史。公见人心瓦解,寇贼所至,非降即逃,所以然者,由官吏朘削,早失民心,以致临事溃散;此有司罪也。察司之责,在巡按、御史。于是上实图察吏安民疏。大略言巡按权重,宪纲所载,明言奸贪蠹政害民者,随即拿问。又六品以下官,有犯取问明白,从公决断,以实奏闻。今巡按考察官吏,但呼名过堂,未见拿问一人,即有一一参劾,需之复命,近即有不时参劾之旨,不过取单寒者塞责。今民命倒悬,在于呼吸之间,安得为此文具。考察官吏,必须当面发落某官称职留任,某官不称职斥逐,某官奸贪蠹政害民拏问,巡历府县立时分别,庶几人情震悚。然其要在反求诸身,必赃罚不取,土仪不问,谢荐不收,先自治而后可以治人。否则受赃之律,身先犯之,恶能以法绳人。又曰:得一良吏,胜于得一名将。去一贪吏,即去一民贼。奏上,天子嘉之。敕巡按御史依奏,着实举行。甲申春贼逼京师,公慷慨自誓曰:此臣子授命之日也。城既破,问仆曰:倪尚书安在?侦之。还报曰:自尽矣。公绐之曰:若等候此。吾即往冠服视倪也。遂入内,久不出。探之,已自缢死。题诗于几曰:愧无半策匡时难,但有微躯报主恩。南都赠公左都御史,谥忠介,祀旌忠祠。总宪刘公宗周,哭以诗曰:淮南一别燠垂寒,再拜班荆话屡酸。国难敢忘婺妇纬,时危转忆菜根盘。身担风纪纲常重,节自平生问学安。白马岩前池畔草,永存规矩奉轮般。
编年载公缢时,仆解之复苏。公叱曰:若知大义,毋久留我!乃更饮药而卒。然他书俱载缢。
先帝遐升,九列中最先自尽者,倪文正与公,皆越人。后又得一周文节。二十一人中,而绍兴乃三人。其后则刘都宪、祁佥都、余庶子等不绝书也。盖浙东诸郡中,绍兴士大夫尤以文章气节自负云。建文死难诸臣,多出江西。数年来亦复然。而越州次之。吴及闽又次之。呜呼!盛矣。
自缢诸贤,宛转数四,未免葛藤。惟忠介最为直捷,从容慷慨,两兼之矣。
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