列传·卷十五
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李善长 汪广洋
李善长,字百室,定远人。少读书有智计,习法家言,策事多中。太祖略地滁阳,善长迎谒。知其为里中长者,礼之,留掌书记。尝从容问曰:“四方战斗,何时定乎?”对曰:“秦乱,汉高起布衣,豁达大度,知人善任,不嗜杀人,五载成帝业。今元纲既紊,天下土崩瓦解。公濠产,距沛不远。山川王气,公当受之。法其所为,天下不足定也。”太祖称善。从下滁州,为参谋,预机画,主馈饷,甚见亲信。太祖威名日盛,诸将来归者,善长察其材,言之太祖。复为太祖布款诚,使皆得自安。有以事力相龃龉者,委曲为调护。郭子兴中流言,疑太祖,稍夺其兵柄。又欲夺善长自辅,善长固谢弗往。太祖深倚之。太祖军和阳,自将击鸡笼山寨,少留兵佐善长居守。元将谍知来袭,设伏败之,太祖以为能。
太祖得巢湖水师,善长力赞渡江。既拔采石,趋太平,善长预书榜禁戢士卒。城下,即揭之通衢,肃然无敢犯者。太祖为太平兴国翼大元帅,以为帅府都事。从克集庆。将取镇江,太祖虑诸将不戢下,乃佯怒欲置诸法,善长力救得解。镇江下,民不知有兵。太祖为江南行中书省平章,以为参议。时宋思颜、李梦庚、郭景祥等俱为省僚,而军机进退,赏罚章程,多决于善长。改枢密院为大都督府,命兼领府司马,进行省参知政事。
太祖为吴王,拜右相国。善长明习故事,裁决如流,又娴于辞命。太祖有所招纳,辄令为书。前后自将征讨,皆命居守,将吏帖服,居民安堵,转调兵饷无乏。尝请榷两淮盐,立茶法,皆斟酌元制,去其弊政。既复制钱法,开铁冶,定鱼税,国用益饶,而民不困。吴元年九月论平吴功,封善长宣国公。改官制,尚左,以为左相国。太祖初渡江,颇用重典,一日,谓善长:“法有连坐三条,不已甚乎?”善长因请自大逆而外皆除之,遂命与中丞刘基等裁定律令,颁示中外。
太祖即帝位,追帝祖考及册立后妃太子诸王,皆以善长充大礼使。置东宫官属,以善长兼太子少师,授银青荣禄大夫、上柱国,录军国重事,余如故。已,帅礼官定郊社宗庙礼。帝幸汴梁,善长留守,一切听便宜行事。寻奏定六部官制,议官民丧服及朝贺东宫仪。奉命监修《元史》,编《祖训录》、《大明集礼》诸书。定天下岳渎神祗封号,封建诸王,爵赏功臣,事无巨细,悉委善长与诸儒臣谋议行之。
洪武三年大封功臣。帝谓:“善长虽无汗马劳,然事朕久,给军食,功甚大,宜进封大国。”乃授开国辅运推诚守正文臣、特进光禄大夫、左柱国、太师、中书左丞相,封韩国公,岁禄四千石,子孙世袭。予铁券,免二死,子免一死。时封公者,徐达、常遇春子茂、李文忠、冯胜、邓愈及善长六人。而善长位第一,制词比之萧何,褒称甚至。
善长外宽和,内多忮刻。参议李饮冰、杨希圣,稍侵善长权,即按其罪奏黜之。与中丞刘基争法而訽。基不自安,请告归。太祖所任张昶、杨宪、汪广洋、胡惟庸皆获罪,善长事寄如故。贵富极,意稍骄,帝始微厌之。四年以疾致仕,赐临濠地若干顷,置守冢户百五十,给佃户千五百家,仪仗士二十家。逾年,病愈,命董建临濠宫殿。徙江南富民十四万田濠州,以善长经理之,留濠者数年。七年擢善长弟存义为太仆丞,存义子伸、佑皆为群牧所官。九年以临安公主归其子祺,拜驸马都尉。初定婚礼,公主修妇道甚肃。光宠赫奕,时人艳之。祺尚主后一月,御史大夫汪广洋、陈宁疏言:“善长狎宠自恣,陛下病不视朝几及旬,不问候。驸马都尉祺六日不朝,宣至殿前,又不引罪,大不敬。”坐削岁禄千八百石。寻命与曹国公李文忠总中书省大都督府御史台,同议军国大事,督圜丘工。
丞相胡惟庸初为宁国知县,以善长荐,擢太常少卿,后为丞相,因相往来。而善长弟存义子佑,惟庸从女婿也。十三年,惟庸谋反伏诛,坐党死者甚众,善长如故。御史台缺中丞,以善长理台事,数有所建白。十八年,有人告存义父子实惟庸党者,诏免死,安置崇明。善长不谢,帝衔之。又五年,善长年已七十有七,耄不检下。尝欲营第,从信国公汤和假卫卒三百人,和密以闻。四月,京民坐罪应徙边者,善长数请免其私亲丁斌等。帝怒按斌,斌故给事惟庸家,因言存义等往时交通惟庸状。命逮存义父子鞫之,词连善长,云:“惟庸有反谋,使存义阴说善长。善长惊叱曰:‘尔言何为者!审尔,九族皆灭!’已,又使善长故人杨文裕说之云:‘事成当以淮西地封为王。’善长惊不许,然颇心动。惟庸乃自往说善长,犹不许。居久之,惟庸复遣存义进说,善长叹曰:‘吾老矣。吾死,汝等自为之!’”或又告善长云:“将军蓝玉出塞,至捕鱼儿海,获惟庸通沙漠使者封绩,善长匿不以闻。”于是御史交章劾善长。而善长奴卢仲谦等,亦告善长与惟庸通赂遗,交私语。狱具,谓善长元勋国戚,知逆谋不发举,狐疑观望怀两端,大逆不道。会有言星变,其占当移大臣。遂并其妻女弟侄家口七十余人诛之。而吉安侯陆仲亨、延安侯唐胜宗、平凉侯费聚、南雄侯赵庸、荥阳侯郑遇春、宜春侯黄彬、河南侯陆聚等,皆同时坐惟庸党死,而已故营阳侯杨璟、济宁侯顾时等追坐者又若干人。帝手诏条列其罪,傅著狱辞,为《昭示奸党三录》,布告天下。善长子祺与主徙江浦,久之卒。祺子芳、茂,以公主恩得不坐。芳为留守中卫指挥,茂为旗手卫镇抚,罢世袭。
善长死之明年,虞部郎中王国用上言:“善长与陛下同心,出万死以取天下,勋臣第一,生封公,死封王,男尚公主,亲戚拜官,人臣之分极矣。藉令欲自图不轨,尚未可知,而今谓其欲佐胡惟庸者,则大谬不然。人情爱其子,必甚于兄弟之子,安享万全之富贵者,必不侥幸万一之富贵。善长与惟庸,犹子之亲耳,于陛下则亲子女也。使善长佐惟庸成,不过勋臣第一而已矣,太师国公封王而已矣,尚主纳妃而已矣,宁复有加于今日?且善长岂不知天下之不可幸取。当元之季,欲为此者何限,莫不身为齑粉,覆宗绝祀,能保首领者几何人哉?善长胡乃身见之,而以衰倦之年身蹈之也。凡为此者,必有深仇激变,大不得已,父子之间或至相挟以求脱祸。今善长之子祺备陛下骨肉亲,无纤芥嫌,何苦而忽为此。若谓天象告变,大臣当灾,杀之以应天象,则尤不可。臣恐天下闻之,谓功如善长且如此,四方因之解体也。今善长已死,言之无益,所愿陛下作戒将来耳。”太祖得书,竟亦不罪也。
汪广洋,字朝宗,高邮人,流寓太平。太祖渡江,召为元帅府令史,江南行省提控。置正军都谏司,擢谏官,迁行省都事,累进中书右司郎中。寻知骁骑卫事,参常遇春军务。下赣州,遂居守,拜江西参政。
洪武元年,山东平,以广洋廉明持重,命理行省,抚纳新附,民甚安之。是年召入为中书省参政。明年出参政陕西。三年,李善长病,中书无官,召广洋为左丞。时右丞杨宪专决事。广洋依违之,犹为所忌,嗾御史劾广洋奉母无状。帝切责,放还乡。宪再奏,徙海南。宪诛,召还。其冬,封忠勤伯,食禄三百六十石。诰词称其专刂繁治剧,屡献忠谋,比之子房、孔明。及善长以病去位,遂以广洋为右丞相,参政胡惟庸为左丞。广洋无所建白,久之,左迁广东行省参政,而帝心终善广洋,复召为左御史大夫。十年复拜右丞相。广洋颇耽酒,与惟庸同相,浮沉守位而已。帝数诫谕之。
十二年十二月,中丞涂节言刘基为惟庸毒死,广洋宜知状。帝问之,对曰:“无有。”帝怒,责广洋朋欺,贬广南。舟次太平,帝追怒其在江西曲庇文正,在中书不发杨宪奸,赐敕诛之。
广洋少师余阙,淹通经史,善篆隶,工为歌诗。为人宽和自守,与奸人同位而不能去,故及于祸。赞曰:明初设中书省,置左右丞相,管领枢要,率以勋臣领其事。然徐达、李文忠等数受命征讨,未尝专理省事。其从容丞弼之任者,李善长、汪广洋、胡惟庸三人而已。惟庸败后,丞相之官遂废不设。故终明之世,惟善长、广洋得称丞相。独惜善长以布衣徒步,能择主于草昧之初,委身戮力,赞成鸿业,遂得剖符开国,列爵上公,乃至富极贵溢,于衰暮之年自取覆灭。广洋谨厚自守,亦不能发奸远祸。俱致重谴,不亦大负爰立之初心,而有愧置诸左右之职业也夫?
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