志·卷四
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◎兵卫志上
轩辕氏合符东海,邑于涿鹿之阿,迁徙往来无常处,以兵为营卫。飞狐以北,无虑以东,西暨流沙,四战之地,圣人犹不免于兵卫,地势然耳。辽国左都辽海,右邑涿鹿,兵力莫强焉。其在隋世,依纥臣水而居,分为十部。兵多者三千,少者千余。顺寒暑,逐水草畜牧。侵伐则十部相与议,兴兵致役,合契而后动,猎则部得自行。至唐,大贺氏胜兵四万三千人,分为八部。大贺氏中衰,仅存五部。有耶律雅里者,分五部为八,立二府以总之,析三耶律氏为七,二审密氏为五,凡二十部。刻木为契,政令大行。逊不有国,乃立遥辇氏代大贺氏,兵力益振,即太祖六世祖也。及太祖会李克用于云中,以兵三十万,盛矣。遥辇耶澜可汗十年,岁在辛酉,太祖授钺专征,破室韦、于厥、奚三国,俘获庐帐,不可胜纪。十月,授大迭烈府夷离堇,明赏罚,缮甲兵,休息民庶,滋蕃群牧,务在戢兵。十一年,总兵四十万伐代北,克郡县九,俘九万五千口。十二年,德祖讨奚,俘七千户。十五年,遥辇可汗卒,遗命逊位于太祖。太祖即位五年,讨西奚、东奚,悉平之,尽有奚、霫之众。六年春,亲征幽州,东西旌旗相望,亘数百里。所经郡县,望风皆下,俘获甚众,振旅而还。秋,亲征背阴国,俘获数万计。神册元年,亲征突厥、吐浑、党项、小蕃、沙陀诸部,俘户一万五千六百;攻振武,乘胜而东,攻蔚、新、武、妫、儒五州,俘获不可胜纪,斩不从命者万四千七百级。尽有代北、河曲、阴山之众,遂取山北八军。四年,亲征于骨里国,俘获一万四千二百口。五年,征党项,俘获二千六百口。攻天德军,拔十有二栅,徙其民。六年,出居庸关,分兵掠檀、顺等州,安远军、三河、良乡、望都、潞、满城、遂城等县,俘其民徙内地,皇太子略定州,俘获甚众。天赞元年,以户口滋繁,糺辖疏远,分北大浓兀为二部,立两节度以统之。三年,西征党项等国,俘获不可胜纪。四年,又亲征渤海。天显元年,灭渤海国,地方五千里,兵数十万,五京、十五府、六十二州,尽有其众,契丹益大。会同初,太宗灭唐立晋,晋献燕、代十六州,民众兵强,莫之能御矣。
兵制
辽国兵制,凡民年十五以上,五十以下,隶兵籍。每正军一名,马三匹,打草谷、守营铺家丁各一人。人铁甲九事,马鞯辔,马甲皮铁,视其力;弓四,箭四百,长短枪、钅骨钅朵、斧钺、小旗、鎚锥、火刀石、马盂、料一斗。料袋、搭钅毛伞各一,縻马绳二百尺,皆自备。人马不给粮草,日遣打草谷骑四出抄掠以供之。铸金鱼符,调发军马。其捉马及传令有银牌二百。军所舍,有远探栏子马,以夜听人马之声。
凡举兵,帝率蕃汉文武臣僚,以青牛白马祭告天地、日神,惟不拜月,分命近臣告太祖以下诸陵及木叶山神,乃诏诸道征兵。惟南、北、奚王,东京渤海兵马,燕京统军兵马,虽奉诏,末敢发兵,必以闻。上遣大将持金鱼符,合,然后行。始闻诏,攒户丁,推户力,核籍齐众以待。自十将以上,次第点集军马、器仗。符至,兵马本司自领,使者不得与。唯再共点军马讫,又以上闻。量兵马多少,再命使充军主,与本司互相监督。又请引五方旗鼓,然后皇帝亲点将校。又选勋戚大臣,充行营兵马都统、副都统、都监各一人。又选诸军兵马尤精锐者三万人为护驾军,又选骁勇三千人为先锋军,又选剽悍百人之上为远探栏子军,以上各有将领。又于诸军每部。量众寡,抽十人或五人,合为一队,别立将领,以备勾取兵马,腾递公事。
其南伐点兵,多在幽州北千里鸳鸯泊。及行,并取居庸关、曹王峪、白马口、古北口、安达马口、松亭关、榆关等路。将至平州、幽州境,又遣使分道催发,不得久驻,恐践禾稼。出兵不过九月,还师不过十二月。在路不得见僧尼、丧服之人。
皇帝亲征,留亲王一人在幽州,权知军国大事。既入南界,分为三路,广信军、雄州、霸州各一。驾必由中道,兵马都统、护驾等军皆从。各路军马遇县镇,即时攻击。若大州军,必先料其虚实、可攻次第而后进兵。沿途民居,园囿、桑柘,必夷伐焚荡。至宋北京,三路兵皆会,以议攻取。及退亦然。三路军马前后左右有先锋。远探栏子马各十数人,在先锋前后二十余里,全副衣甲,夜中每行十里或五里少驻,下马侧听无有人马之声。有则擒之;力不可敌,飞报先锋,齐力攻击。如有大军,走报主帅。敌中虚实,动必知之。军行当道州城,防守坚固,不可攻击,引兵过之。恐敌人出城邀阻,乃围射鼓噪,诈为攻击。敌方闭城固守,前路无阻,引兵进,分兵抄截,使随处州城隔绝不通,孤立无援。所过大小州城,至夜,恐城中出兵突击,及与邻州计会军马,甲夜,每城以骑兵百人去城门左右百余步,被甲执兵,立马以待。兵出,力不能加,驰还勾集众兵与战。左右官道、斜径、山路、河津,夜中并遣兵巡守。其打草谷家丁,各衣甲持兵,旋团为队,必先砍伐园林,然后驱掠老幼,连大木填壕堑,攻城之际,必使先登,矢石檑木并下,止伤老幼。又于本国州县起汉人乡兵万人,随军专伐园林,填道路。御寨及诸营垒,唯用桑柘梨栗。军退,纵火焚之。敌军既阵,料其阵势小大,山川形势,往回道路,救援捷径,漕运所出,各有以制之。然后于阵四面,列骑为队,每队五、七百人,十队为一道,十道当一面。各有主帅。最先一队走马大噪,冲突敌阵。得利,则诸队齐进;若未利,引退,第二队继之。退者,息马饮水料。诸道皆然。更退迭进,敌阵不动,亦不力战。历二三日,待其困惫,又令打草谷家丁马施双帚,因风疾驰,扬尘敌阵,更互往来。中既饥疲,目不相睹,可以取胜。若阵南获胜,阵北失利,主将在中,无以知之,则以本国四方山川为号,声以相闻,得相救应。
若帝不亲征,重臣统兵不下十五万众,三路往还,北京会兵,进以九月,退以十二月,行事次第皆如之。若春以正月,秋以九月,不命都统,止遣骑兵六万,不许深入,不攻城池,不伐林木,但于界外三百里内,耗荡生聚,不令种养而已。
军入南界,步骑军帐不循阡陌。三道将领各一人,率栏子马各万骑,支散游弈百十里外,更迭觇逻。及暮,以吹角为号,众即顿舍,环绕御帐,自近及远,折木稍屈,为弓子铺,不设枪营堑栅之备。
每军行,鼓三伐,不问昼夜,大众齐发。未遇大敌,不乘战马,俟近敌师,乘新羁马,蹄有余力。成列不战,退则乘之。多伏兵断粮道,冒夜举火,上风曳柴。馈饷自赍,散而复聚。善战,能寒。此兵之所以强也。
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